前書き
EVE Onlineの世界は広い。それは長年に渡る有志の翻訳活動や、公式の日本語対応が復活した現在もなお、EVE Onlineに関する未翻訳の情報は公式・非公式問わず膨大に残されていることからも、いかにNew Edenの宇宙が広大であるか、うかがい知ることができる。普段ならここでEVE
Onlineに関する未翻訳文書を日本語で紹介する記事を投稿するところだが、今回はちょっとだけ脇道に逸れた話をしたい。
改めて自己紹介させていただくと、自分は渋丸や4bumar Sarainの名前で活動する一般的なカプセラの一人で、ONCBNに所属する傍ら、コーポのブログからいくつか翻訳記事を発表している。特段、言語学や英文学を専攻しているわけではないため、これから話す翻訳についての話題は、何かしらの学術的な後ろ盾があるわけではない点に留意していただきたい。ちなみにこの原稿を書いている最中、飼っている白文鳥の「黒毛和牛」に右手を不法占拠されたため、以降は左手の人差し指のみを使って原稿を作成する。ちなみに両手が使える状態であれば、ブラインドタッチによる文章作成は余裕で出来ることを強調しておく。
1.
英語は「後ろから訳す」のがセオリー
まず最初に、今回のタイトルで提示した命題を改めて確認しておきたい。今回の話題は「英語は前から訳すか?後ろから訳すか?」という問題についてだが、日頃あまり翻訳を経験したことがない方にとっては一体何を問題にされているんだか内容が掴みにくいかもしれない。
例として、「This is a missile.」という見慣れた英文に対して翻訳を試みてみよう。
まず単語単位で日本語に直してみると「これ
は ひとつ ミサイル。」という一対一対応で日本語化される。日本語では「a」のような冠詞を重要視しないことから、日本語として自然な形に手直しすると「これはミサイルです。」という訳文が完成する。この例文だけを取り上げるなら、英文中の語順はほぼそのまま日本語の語順と一致しているため、「英語は前から訳す」形になっていると言える。
ところが英語は、何もこういった素直な形の文章ばかりではなく、むしろ前から素直に訳せる例は非常に少ない。
例えば英語は関係代名詞によって文章の内容を充実させることが非常に多いが、先ほどの例に対してさらに関係代名詞を使って拡張すると「This is a Scourge Fury Heavy Missile which I luckily got from that
ship wreck.」などの例文が用意される。
ここで首をもたげるのが、「英語を前から訳すか?後ろから訳すか?」という問題である。「which」以下の文は「Scourge Fury Heavy Missile」を修飾させる形でかかっており、「Scourge Fury Heavy Missile」について、より詳細な情報を説明する内容になっている。
ここで「後ろから訳す」という方針が取る翻訳の行動というのは、「which」以下の補足説明をすべて「Scourge Fury Heavy Missile」の前に持ってくることで、関係代名詞を使う前の状態に復元した後、英文を訳すことを意味する。
今回の場合、「これは私が運良くあの船の残骸から拾ってきたスコージ・フューリー・ヘビーミサイルです。」という訳文が完成する。恐らくミサイルを拾った人は運良く船の残骸を見つけたのではなく、運良く屠りやすいドレイクなどの獲物を見つけて始末したのだろう。宇宙で船が勝手に爆発して残骸になることはあり得ない。
ここで注意したいのは、「後ろから訳す」とは言っても、決して文章の最後の単語から順番に訳すわけではない。
では、なぜ「後ろから訳す」必要が生じるのか?大きく理由は2つあると思うのだが、端的に言ってしまえば、日本語には「名詞にかかる修飾内容が肥大化してしまったときの対処方法」が基本的に存在しないからだと言えるのではないだろうか。専門じゃないためこの点はあまり断言できないが、一応それなりの根拠はある。
英語というのは名詞をかなり重要視する言語のため、文章の内容を充実させようとすると名詞にかかる修飾が無限に肥大化して頭が重くなってしまうようになっている。しかし、いくら英語にとっても、あまり名詞にかかる修飾が肥大化しすぎるとかえって文章全体の構図が分かりにくくなるため、文法的な決まり事の下に肥大化した修飾内容を後ろに下げるという操作がよく行われる。形式主語「It」は英語で頻繁に使われる文法だが、これは肥大化した主語を後ろに下げる代表的な方法だと言える。
ところが日本語は、名詞にそこまで大量の修飾を背負わせることはない。日本語は、「名詞にかかる修飾内容が肥大化しすぎて困った」といった悩みを感じることはない。日本語には英語のつらさが分からない。そして必要に迫られないところに言語は発展しない。日本語には、基本的に「名詞にかかる修飾内容が肥大化しすぎたときの対処方法」を使うのはメジャーではない。
もちろん、無いなら無いなりにそれなりの方法は有るには有る。それが「前から訳す」という翻訳手法が取る行動になる。
例えば先ほどドレイクを撃墜させた人の例文の場合、「前から訳す」ことを試みるというのは、「一定の決まり事の下に名詞にかかる修飾内容を後ろに下げる」という原文の文章構造をそのまま踏襲して訳すことになる。すると「これはスコージ・フューリー・ヘビーミサイルだが、このミサイルは私が運良くあの船の残骸から拾ってきたものだ。」という訳文が完成する。
一見すると、「後ろから訳す」訳文と「前から訳す」訳文は、同じ内容になっているように見えるかもしれない。しかしこの2つの文を比較するとき、もうひとつの問題が首をもたげることになる。それは、英語は「先頭重視」の言語で、日本語は「後方重視」の言語だという問題だ。
2.
英語は「先頭重視」、日本語は「後方重視」
文章というのは、言葉を並べる順番を入れ替えることで、読み手が文章から受ける印象や文章全体が持つ意味合いを変えることができる。その変化はごくわずかである場合もあれば、致命的な差異になるパターンもあるため、語順の問題は簡単なように見えて実は根が深い。
例えば次の2つの例文を見てみよう。「私は昨晩タイタンを墜とした。」という文と、「昨晩タイタンを墜としたのは私だ。」という文は、文章から受ける印象が明確に違うと感じる方は多いのではないだろうか。最初の例文は、恐らく暗い顔をしてがっくりとうなだれているところを、心配したコーポのメンバーから理由を尋ねられて、ようやく重たい口を開いたのだろう。次の例文は、恐らくヌルのローカルチャットで、昨晩タイタンを堕とした間抜けがいるらしいと笑っている奴がいるのを見つけてしまい、ブチ切れて思わず切り出してしまったのだろう。
なぜこの2つの例文は、文章から受ける印象が違うのか?それは、日本語が「後方重視」の言語だからという理由が大きい。と説明しても、言語学に詳しい人からは怒られないと思う。
日本語は基本的に、文章の後半や終わりにかけて最も重要な情報が開示される言語だ。そして先ほどの2つの例文は、それぞれ重要とされる位置に来ている言葉が違っている。
最初の例文の場合、「タイタンを堕とした」という情報が後半に置かれている。つまり、この文章は「タイタンを堕とした」という情報を強調している構造になっており、この人物がなぜこれほど暗い顔をしているのかという謎に対する答えとなっている。
一方、二番目の例文の場合、後半に置かれているのは「私だ」という情報について。「昨晩タイタンを堕とした間抜けがいるらしい」という陰口を本人の目の前で叩くという大間抜けに対して張り手をお見舞いするのだから、やはり強調すべき情報は「私だ」以外にはないだろう。
このように日本語は「後方重視」の傾向があるため、文章の後半に置かれた情報ほど内容は重要だということになる。一方、英語は「先頭重視」の傾向があり、日本語とは逆に文章の先頭で真っ先に開示される情報が最も重要な内容になってくる。
ではなぜ、「前から訳すか?後ろから訳すか?」という問題が「先頭重視・後方重視」と関わってくるのか。それは「前から訳す」ことで誕生した訳文と「後ろから訳す」ことで完成した訳文の違いは、まさにこの「先頭重視・後方重視」の評価基準に照らされることで良し悪しの裁定が下されるからだ。
ここで先に正解を言ってしまうと、一般的により良い訳文として軍配が上がるのは「後ろから訳す」方式だ。何故なら裏の裏は表に他ならない。英語が後ろに下げた情報を前に出して訳す「後ろから訳す」方式は、英語にとって重要度が低いとされる後方にある情報を前方に押し出して日本語化するため、「先頭重視・後方重視」が英語とは反対の世界の日本語にとってはまさしく適切な語順になるからだ。
非常に長い論証となったが、「英語は後ろから訳すのがセオリー」と言われるのは、こうした「裏の裏は表」理論が事由になっている。
3.「後ろの単語から訳す」ことを試みる勢力もある
ここで少し話題が脇道に逸れるが、「後ろから訳す」という手法を解説するときに「決して後ろの単語から順番に訳すわけではない」と説明したのを覚えているだろうか。もちろん、後ろの単語から順番に訳すのは完全に誤訳の源であり、訳し方としてはどんな温厚な審判であってもレッドカードを贈呈するのを惜しまないくらいにはあからさまにアウトだ。
しかし世の中には、「後ろの単語から訳す」というタブーをあえて試みる勢力もある。「後ろの単語から訳す」なんて言い方は小綺麗すぎるくらいで、実際にはスパゲッティをマッシュポテトみたくぐちゃぐちゃにすりつぶして食べるような訳し方をしている。イタリア人が見たら卒倒してしまうだろう。
そんな汚すぎる訳し方をしているのが、最近「精度がいい」と話題の人工知能だ。実は人工知能が行っている翻訳というのは、まず英文を単語単位で日本語化し、ありとあらゆる語順に並べ替えて訳文を作ってみるという総当たり方式。そして出来上がった無数の訳文について評価を行い、誤訳と判定された訳文については「今後同じような語順で訳さない」と覚え、適切と判定された訳文については「今後同じような語順で訳してみる」と覚える。もちろん、機械翻訳の登場初期は「エキサイト翻訳」の悪名でよく知られるところであり、とても人間が考えつかないような珍解答の誤訳が非常に手軽に爆誕したものだったが、現在は安定した精度で英文を日本語化できる人工知能が数多く登場している。ただしエキサイト翻訳の芸風は現在も健在な模様。
実際にGoogle翻訳などの機械翻訳を使ってみたことがある人なら実感したことがあると思うのだが、こうした機械翻訳は複雑な関係代名詞や修飾関係を極めて高い精度で翻訳できるのが大きな特徴だ。それこそ、原文では7行半に渡る複雑な文法構造になっている長文を訳すときなどは、人の手で翻訳する場合、文の後半を読んでいる途中で前半の内容を覚えきれなくなるため、「後ろから訳す」方式の翻訳をするときは非常に手強い相手となるが、機械翻訳なら「読んでる途中で内容を忘れる」などという人間臭い苦労はない。どれほど文法的な修飾関係が複雑であろうとも、正しい文法を使って書かれた英文なら極めて高い精度で日本語へと翻訳することができる。
この手の機械翻訳の話をすると、後に続く話題というのは決まり文句のように「しかしだよ君、機械翻訳は所詮、機械が人間の真似事をしているに過ぎないわけで、優れた翻訳者が生み出すような洗練された意訳は出来ないわけだ」という機械批判が始まるのが定石だが、今回はそれほどオーソドックスで王道な話をするわけではない。ここで是非とも、さらに脇道に逸れた話へと進んでいこうと思う。
4. 機械翻訳にとって弁慶の泣き所は「裏の裏が裏」パターンにある
先ほど「機械翻訳は複雑な文法構造を極めて正確に翻訳することができる」という話をしたばかりだが、実は機械翻訳の弱点は、その正確性の高さにあると言ってもいい。ここで例えば、機械翻訳には「意訳」をつくるとか「名訳」を生み出すといった機転の利いたことは出来ないといった話をくだくだと始めて、人間様を一生懸命持ち上げるような弁明をしなくても、そもそも機械翻訳には構造的な欠陥があるのだ。
これまでの話の中で、「後ろから訳す」方式は「先頭重視・後方重視」が逆転した日本語へ訳す際に「裏の裏は表」という道を経て訳文が作れるため、「裏の裏は表」理論で、結局、原文に即した内容の翻訳ができるという話をした。だからこそ、「後ろから訳す」方式は翻訳のセオリーだと説明した。ところが「セオリー」があるところに「意外な展開」は付きもので、「定石」があるところに「奇手」や「からめ手」は必ず存在する。
そう、世の中にはあるわけだ。
「裏の裏が裏」パターンというのが。
これはもう実例を見て頂いた方が話は早いと思うので、実際に遭遇した「裏の裏が裏」パターンをここで紹介したいと思う。
「For a better visualization data points are connected with a line
which is not indicating any other calculated data.」
これを「後ろから訳す」方式で訳すとすると、「より良い可視化のために、データポイントは他の計算されたデータを示さない実線で結びました。」という訳文が完成する。こうして、一体何の話をしているのかさっぱり意味が分からない日本語がここに誕生する。ちなみに、高い翻訳精度で有名のGoogle翻訳を噛ませた場合も、これとほぼ同様の訳文が完成する。
なおここで、この文章が一体どんな話をしているのか解説すると、まずこの文章はとあるデータを統計的に分析した結果を解説する目的で書かれている。背景となる統計解析には、グラフに打たれたデータポイントを実線で結ぶ方法にいくつか種類があり、数学的な計算によって導き出される近似直線のようなものもあるのだが、この実線に関しては一切そういった計算処理の手を加えていないという話をしている。
恐らく多くの人は、小学生の頃に理科の時間にあさがおの成長記録をつけたと思うが、日付ごとに記録したあさがおの身長について「一番近い直線を引いてみよう」と先生に言われ、苦心しながら定規で直線を引いたのを覚えているだろうか。子供心に「グラフがガタガタすぎて、どの直線が一番いい直線になるんだか分かりゃしねえや」と理不尽に思ったり、クラスメイトが太いえんぴつを使って線を引けばすべての点が直線上に乗ることに気付いたのを見て自分もそれを真似したり、さまざまな思い出があるだろう。
実は小学生の頃に先生が教えてくれなかったことだが、この直線の引き方には数学的なうまい方法があって、一定の計算処理をすれば「すべてのデータポイントに対してなるべく近い」位置にくる最良の近似直線が一本に決まるのだ。大人はずるい。
こうした回帰直線などの近似直線であれば、見ただけですぐ「何かしらの計算処理を行った実線を引いたんだな」と分かるところだが、統計解析手法の中には、一見しただけでは一体どのような計算処理を行ったのか分かりにくい実線の結び方もある。それこそ、データの性質にもよるが、単にデータポイントを直線で結んだだけのように見える実線が、実は何かしらの統計手法によって計算処理を行った後に引かれた、補正後の線であることもある。ただし、今回はその手のものではない。原文は、そういった統計分析の背景に対する断り書きをしたいのだ。
実はここで、「先頭重視・後方重視」が反転した世界であるはずの英語と日本語が、奇妙な一致を見せる。両者とも「ただし書き」は後方に据えたいと考えているのだ。
今回の場合、「which is not indicating any other calculated data」という箇所が「ただし書き」の内容になる。先ほど説明したように、統計解析にはデータポイントを線で結ぶ際に一定の計算処理を行うこともあるが、今回はいかなる計算処理も行っていないという「ただし書き」をする内容になっている。英語も日本語も、こういった「ただし書き」は是非とも最後尾に据えたいという意見で一致している。
今回の場合、「ただし書き」を最後尾に置いたままで「後ろから訳す」ことを試みると、何一つ「後ろから訳す」ことがなくなるのがお分かり頂けるだろう。順番に「前から訳す」だけでいいパターンだというわけだ。訳例として、「より良い可視化のためにデータポイント同士は実線で結んだが、この線はデータに対する何かしらの計算結果を示すものではありません。」という翻訳ができると思う。
ではなぜ、こうした「裏の裏が裏」パターンは機械翻訳にとって「弁慶の泣き所」と言えるのか?それは「裏の裏が裏」パターンは、文章の内容を理解しなければ見抜けないパターンだからだ。
先ほど説明したように、機械翻訳はランダムに語順を入れ替えて作成した無数の訳文に対する正誤判定を学習することで、より正確な翻訳を目指している。つまり、機械翻訳は原文を理解しないまま翻訳を行っていると言っても過言ではない。原文を理解していないから、「意味」や「内容」から判断して翻訳手法を使い分けるということは出来ない。そういった判断は、設計上不可能だということになる。
先ほど紹介した「裏の裏が裏」パターンは、英語も日本語も「ただし書き」については是非とも最後尾に据えたいという点で両者の思惑が合致してしまったために起きた現象だが、目の前に現れた関係代名詞が「ただし書き」の関係代名詞だと気付くためには、原文の内容を十分理解していることが絶対に避けられない条件として立ち塞がってくる。もちろん「ただし書き」の関係代名詞として、カンマを付ける非制限用法の関係代名詞というものが英文法には備わっているが、取り立ててわざわざ非制限用法を使わなくても「ただし書き」の意味で関係代名詞を使ってしまうことは非常によくある。
だが、世の中には気の早い人が結論を急いたりすることもあるわけで、そういう方は「近い将来、翻訳というのはすべてAIが行うようになって、人間は一切苦労しなくても他言語の文章が読めるようになる」という素晴らしい未来絵図を示したりもする。しかし、翻訳を行う上で原文を十分に理解するというのは絶対に避けられない作業工程だ。先ほど例示したように、「原文の内容を理解した上でないと、どの翻訳手法を使うのが適切か判断できない」というパターンが確実に存在するからだ。そして機械翻訳は「内容を理解しないまま翻訳する」という出発点から走り始めてしまった以上、どれほど学習を重ねたところで「高い精度」の翻訳という水準を超える日は来ない。そして人が翻訳に求める水準というのは、決して「高い精度」ではない。「信頼できる精度」である。
AIがすべての翻訳を担い、翻訳された内容は原文に忠実な内容であると責任を持って保証できるようになるためには、現在AIが進化し続ける延長線上ではなく、まったく別の発想・構築・設計が是非とも必要になる。人工知能の技術水準というのは、もうすでに何かしらの「パラダイムシフト」を必要とする段階にまで来ているが、実は「精度が良い」と話題の機械翻訳の分野ですら、何か天井のようなものが見え始めていると言えるのではないだろうか。
5. 「英語は前から訳すか?後ろから訳すか?」の結論
そろそろ右手の中で爆睡していた黒毛が腹をすかせて不機嫌になり始めたので、タイトルで提示した命題に対して一定の結論を導いておきたいと思う。文鳥という生き物は小柄な身体で活発に運動するため、一日に何度も食事を摂る。毛繕いをしたり、昼寝をしたり、現在彼女を募集中であるとさえずったり、飼い主の右手を不法占拠して巣作りしたり、文鳥は大変忙しい生き物だ。
結局、英語は前から訳すか?後ろから訳すか?結論からして言えば、「内容を見て判断するしかない」と言う他ない。ケースバイケースとも言う。状況次第とも言う。高度な柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対応するしかない。大人だからな、仕方ない。
ただしこのままでは、せっかくここまで話を進めてきたというのに何かしら断言できるような快刀乱麻な結論もなく話が空中霧散してしまった感じもあるし、翻訳について少しでも有益な知識が得られるのではと期待して読み進めてきた方にとっては肩透かしどころではないかもしれない。まあ、「翻訳に方程式は存在しない」と言ってしまえばそこまでだが、翻訳に方程式は存在しないからこそ、正解はないとも言えるが、不正解もまたないと言える。過去には、優れた翻訳者による非常に痛快な「誤訳」というものもあり、見ていて非常に勇気づけられる先例があるので、ここで紹介しておく。
映画ファンの間でお馴染みのキューブリック監督といえば、「時計仕掛けのオレンジ」「フルメタルジャケット」「シャイニング」「2001年宇宙の旅」を代表作に挙げる人も多いが、「博士の異常な愛情」もまた彼が手掛けた映画の中でも映画史に残る傑作である。ちなみに日曜の顔でお馴染みの大喜利番組「笑点」は、2001年の番組企画で「座布団10枚獲得した方に『2001年宇宙の旅』を差し上げます」と公言し、見事、座布団10枚を達成した三遊亭小遊三師匠に対しては公約通り「2001円府中の足袋」が贈呈されたという歴史がある。
キューブリック監督は、自分の映画が他言語へ翻訳される際に非常に口出しすることでも知られており、特にタイトルに関しては、原題とかけ離れた訳を当てることを決して許さなかった。ちなみに「時計仕掛けのオレンジ」「フルメタルジャケット」「シャイニング」「2001年宇宙の旅」の原題はそれぞれ「A Clockwork Orange」「Full Metal Jacket」「The Shining」「2001: A Space Odyssey」と、極めて原題に即した邦題が付けられていることが分かる。
さてここで問題になるのが、「博士の異常な愛情
または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」だ。
この映画の原題は「Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb」。一目見ただけで分かる通り、邦題の「博士の異常な愛情」にあたる部分は、本来であれば「ストレンジラヴ博士」と訳されるべきところ。原題は、サザエさんやドラえもんと同じように、主人公の名前がタイトルにドーンと打ち出されている系のタイトルだったわけだ。
この誤訳はいかにしてキューブリック監督の目をすり抜けたかというと、「Dr. Strangelove」を単語単位に分割して日本語化し「博士 異常な 愛情」といった具合にバラバラに翻訳したら、接続部分をちょいちょいと手直ししてそのまま邦題としたのだ。「英語は後ろから訳すのがセオリー」だとか「先頭重視・後方重視」といったことを一切無視した、まごうことなき誤訳でありながら、「創意工夫を凝らしたタイトルを付けることを一切認めない」という偏屈屋のキューブリック監督の目をうまく盗んでゴーサインを頂戴することに成功した、創意工夫あふれる誤訳だと言える。口に出して読み上げてみると「異常な愛情」とリズミカルに韻を踏んでいるのも小気味いい上に、とんでもない誤訳でありながら映画の内容に即したタイトルであることに変わりないというきれいな着地を見せているのも奇跡的だと言えるのではないだろうか。この邦題を手掛けた人物は、こっそりキューブリック監督に向けて舌を出していたに違いないと、その姿が目に浮かぶような素晴らしい誤訳である。
翻訳というと、どうしても「原文に忠実な訳文以外は認められない」といった堅苦しい世界なのではと想像する人も多いかもしれないが、実は先に挙げた例のように、「法の隙間」が確実に存在するのが翻訳だったりもする。さすがに「博士の異常な愛情」級に突拍子もないとんでも誤訳を連発されるのは困ってしまうが、それでも翻訳には、少なからず自由な領域がどこかに必ず残されている。下手に自由が残されているもんだからかえって苦労することもあるし、こうしたわずかな自由にこそ翻訳の醍醐味が詰まっていたりもする。
黒毛が本格的にひもじいと暴れはじめたので、本日はこれにてお開き。
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